裁判員裁判経験者の意見交換会に参加して ~否認事件特集だったけど~
今年は、短くてもいいから、こまめにブログをアップしようと年頭に誓ったにもかかわらず、はや6月末…。
2月にトライした「虐待・ネグレクト・母親世代から続く社会的孤立」をテーマにした若者の裁判員裁判についての報告もせず、
5月に日弁連の死刑廃止シンポ実行委員会(刑事拘禁本部も兼ねている)で行った、
イギリス・スペイン海外視察の報告もせず、もう6月になってしまいました。
(イギリスでは、ロンドンのベルマーシュ刑務所、スペインでは、マドリッド第7刑務所とマザーズ・ユニットという刑事施設を見学してきました。(^^)/。また、ブログにアップします )。
ここ最近は、薬物、クレプトマニア、児童虐待による解離性障害など、中身の濃い事案に追われていたり、
一部執行猶予制度の開始にともなう「保釈の制限」に追われていました。
一部執行猶予制度は、薬物犯の更生が目的のはずなのですが、
裁判所は、刑事手続き中の治療開始を嫌がり、治療なんて後でいいから、さっさと受刑せよとばかりに、
逃亡のおそれも、罪証隠滅のおそれもない事案で、保釈を制限し始めたのです。
これはゆゆしき事態です。
実は、現在、刑事事件は、地で大幅に減少しています。
大阪地裁でも、この間、刑事部が1つ廃止されました。
東京地裁の事情よく知りませんが、部の数は多そうにみえて、実は、部の番号を見ると、歯抜け状態ですよね。
少年事件は目に見えて激減しており、少年鑑別所の鑑別技官などは、仕事がなくて困っているそうです。
関東方面の調査官のお話を聞く機会がありましたが、その激減ぶりたるや、想像以上にすさまじいと感じました。
私は、刑事事件が減ること自体は、更生保護にとっては良い事なのではないか、
今まで、時間・人員ともに余裕がなくて手が回らず、否認事件でないと十分な時間をとってもらえなかったのが、
認め事件であっても手が回るだけの時間的余裕ができるわけだし、
受刑者対刑務官の比率も上がるのだから、より手厚い処遇が可能になってくるだろう…、
鑑別技官に仕事がないなら、少年だけでなく、成人でも鑑別技官を使えるようにすればいいじゃないか!
知的障害とか、発達障害の鑑別に使えばいいんだよ、
特に、知的障害なんて、「障がい者刑事弁護」なんて言って、苦労話を続けている方がおかしい気がする、
療育手帳を持っている人や、持っていなくても、鑑別技官を使って判別して、知的障害があることが判明した場合は、
一般人とは別ルートに乗せるくらいのことはするべきだ…、なんて思いながら、肯定的にとらえていたのですが、
一部執行猶予制度の実施で、症状の重い被告人を治療につないで、被告人と家族を助けようと懸命に努力していても、
かえって、裁判所から保釈の制限を受ける事態に、
これは更生保護にはつながらない、お先真っ暗の状態なのではないかと思い始めていました。
最近は「こんなに人助けをして良いことをしているはずなのに、否定ばかりされる仕事なんてもう嫌だ…。」と嫌気がさしていたのですが、
今日はちょっといいことがあったので、久しぶりにブログを書いてみることにしました。
今日、偶然、裁判所で開催された「裁判員経験者による意見交換会」に、弁護士会から参加する機会がありました。
私が海外視察で欠席している間に開かれた刑事弁護委員会で、弁護士会からの出席者を募っていたようですが、
日程的に空いている人がいなかったようです。
今回の意見交換会は、「否認事件」をテーマにした会だということで、
誰か他の人の方が適任なんじゃないか?と言ったのですが、誰も出席できる人がおらず、
刑弁委員長が「誰か!」と悲鳴のような声をあげていたので、「では、私が行きましょう。」と言ったのでした。
しかし、結果は、出席させてもらって大正解でした ♪
裁判員さんたちは、私が想像していたのとは、かなり違う感覚を持っており、
法曹関係者のように、その事件が「否認事件」か、「認め事件」かという区別にはこだわっておらず、
事案を本質的にとらえて、判断していることがわかったからです。
今日の否認事件は、すべて「医師が証人として出廷している事件」という共通点はありましたが、
それ以外の罪名や事実関係はさまざまでした。
高齢者の準強制わいせつ致傷事件から、
パーソナリティー障害のある被告人の放火殺人事件、
過去の辛い出来事から精神を病んだ妻を、夫が看病した末に殺害してしまった殺人事件、
母親が障害のある子どもを長年介護した末に殺してしまった介護殺人事件、
子どもへの児童虐待事件など、5つの事件がありました。
裁判員の方々の意見を聞いていて感じたのは、
① 極めて特殊な難事件を除いて、専門家証人であっても、医師の説明はよく理解しておられること、
② 法曹関係者のように、否認事件、認め事件(情状事件)という区別に拘ることなく、「事案の本質をつかんで、判断しようとしている」ということでした。
つまり、形式的には、否認事件の形をとっていても(例えば、責任能力を争っていても)、
問題の本質が「情状」(例えば、犯行に至るまでの経緯など)である場合は、情状をよく見て、
「本当にこの人に刑罰を科す意味があるのか」、という観点から、判断していました。
弁護人の主張は違ったけど、結果は、弁護人の求めるとおりになったと言っておられる方がいましたが、
それは、弁護人がしている法律上の主張は違うけど(否認の主張は認められない)、
情状に関する事情があり、そこがこの事件の本質なのであって、
本質(情状)をきちんと評価すると、弁護人が求めるとおり、執行猶予になったという意味でした。
他にも、高齢者が起こした準強制わいせつ致傷事件では、資料を見て、
日本では、「高齢者はきれいに枯れていくものだ。年寄りになってまで、いつまでも性欲に駆られるのは、恥ずかしいことだ」
とされているから、そういう世間的な目で見られたのではないか、
(被告人が犯行を犯したことは、証拠から明らかな事案だったので)、
弁護人が争うことにあまりいい印象を持っておられないのではないか…と思っていたのですが、
実際は、全く異なり、むしろ、(担当弁護士がたまたま若い弁護士だったようですが)、
「弁護人は、あの若さで本当に高齢者の性を理解できているのだろうか。
自分と同じくらいの年齢に達していなければ、本当には理解できないのではないだろうか。」と、
お叱りともとれる言葉をおっしゃっていました。
看護殺人の事件では、検察官や弁護士が設定した争点(「被害者の承諾」や「責任能力」)に本質があるのではなく、
犯行に至った経緯を理解することが事件の本質であり、
量刑を決める一番重要な要素であることを理解しておられました。
また、実刑になったけれども、執行猶予の可能性もあった介護殺人の事案では、
最後の最後まで量刑で悩み続け、時間ギリギリまで評議しておられたようでした。
従来の裁判官裁判では、歴史的に、「否認事件こそ、刑事事件の華」とされていて、
法律上の争点にばかり焦点があてられていました。
認め事件だと、途端に軽く扱われ、時間を制約され、証拠採用もしてもらえなかったりしたのです。
(今でも、圧倒的多数を占める、軽微な事件、つまり、裁判官による単独事件では同じ状況です)。
ですから、弁護人の方も、何とかして否認事件の形に持ち込もうとする傾向があり、
それが本筋の主張ではないことがわかっていても、否認の形態に拘り続け、否認の主張を捨てられないところがありました。
しかし、裁判員さん達は、過去の経験がない分、「否認事件」か「認め事件」かといった形式には全くこだわっておらず、
その事件の本質に沿った判断をしようとしていることを強く感じました。
もちろん、その結果、思い量刑になってしまうケースもあると思います。
例えば、若者の強盗致傷事件とか、強姦致傷事件などです。
正直いって、あまりに量刑が重過ぎるのではないかと思うことも多々あるのですが、
従来の裁判官裁判にはなかった希望があるのも事実です。
(裁判員裁判では、若者への量刑が裁判官より厳しい気がしますが、
若者を過度に長く受刑させると、出所後、社会に適応できなくなってしまい、長い目で見ると、社会にとっては危険だと思います。長期受刑の弊害ですね…。
強盗致傷事件などで、少年刑務所に送ることもできないような長期刑を科すのは危険だと思います。
犯罪者を再生産しているようなものです。)
否認事件か、認め事件かにこだわっていた自分が間違っていたな、
もう少しだけ頑張ってみようかな…、と思えた意見交換会でした。
PS: ただし、昨今、刑事事件の減少とともに、裁判員裁判事件も減少しています。
さまざまな事情から、期の若い弁護士に配点される傾向もあったりもします。
裁判員裁判はどうなっていくのでしょうね…。