治療的司法のウェクスラ―教授 from プエルトリコ大学
2017年9月1日(金曜日)は、東京出張。渋谷の國學院大學へ行ってきました。
東京は、猛暑が続いていた大阪に比べて、涼しい感じ。
第2回犯罪学合同大会・公開シンポジウムでしたが、5つの学会が集まっていたらしく、かなり広い会場がびっしり埋まるほどの盛況ぶりでした。
300人~400人くらい?もっといたのでしょうか?
座る席がないほどで、1時前に会場に入った私は、関係者席の真後ろに座りました。
関係者はいつもご一緒している方々ですし、その周辺にも、日弁連の人権大会や何かのシンポジウムなど、どこかでお見かけした顔ぶれが多くいらっしゃいました。
【司会の後藤弘子先生】 【ATA-net代表 石塚伸一先生】
【法務省矯正局から富山聡氏】
最初に、法務省矯正局から、富山聡氏の祝辞があり、その中には、「刑事施設内処遇はそれだけでは無力であり、施設外での各種機関との連携する必要がある」という言葉が…。
まさに、そのとおりですね。
そして、なんといっても、今回の目玉は、基調講演の「治療法学からの日本への提言」。
プエルトリコ大学から、治療的司法の権威であるデビッド・B・ウェクスラー教授が来日されて、講演して下さいました。
ウェクスラー教授は、プラハでも、日本の治療的司法チームのワークショップを見に下さっていたのですが、今回は来日して、治療的司法の考え方のエッセンスを語って下さったわけです。
【プエルトリコ大学のウェイクスラー教授】
初めてその考え方を通して聞いたのですが、印象に残ったエッセンス的な言葉を書き留めてみました。
(私は英語はわからず、通訳さんの言葉を聞きながら、メモを取っていただけなので、正確ではないかもしれせん。ちなみに、会場の方々は学者系の方が多いのか、英語でそのまま理解している人が多い印象でした。)。
まず、TJ(治療的司法)は、単なる書かれた法、単なる知識の集まりではなく、法の適用、運用論だそうです。
法改正が有用なことはあるものの、法そのものを変えずに運用の向上を図ることが出来ることを強調しておられました。
重要なのは、裁判それ自体ではなく、むしろもっと初期の段階(ダイバージョン、保釈、司法調停、刑事和解等)や、判決後の段階(判決言渡し、仮釈放等)。
さらに、裁判においては、必ずしも拘禁刑を言い渡す必要はなく、刑の宣告を延期出来る。(その間に、治療や調整を試みる)。
例えば、パラノイアに罹患した患者が、服薬が出来ていなかったために、銃の不法所持で逮捕された事例では、有罪を認めていることを条件に、刑の宣告が相当期間猶予された。
裁判官は、判決時に、本人が協力的態度であることを賞賛し、すべては制御されているようだと述べて、保護観察を言い渡した。
そこでは、自己決定と、長所の強化、行為者ではなく、行為そのものを非難することが重要視されておいる。
裁判官は、裁判にあたり、また、判決を言い渡すにあたって、配慮ある言葉遣いを心がけねばならず、巧みで、ニュアンスある言葉を使用する必要がある。
(これ、納得です。私も、自分では結構得意なつもり。情状弁護が本当に得意な人は、接見や打合せの際にこのスキルを無意識のうちに駆使していると思います。
今まで、このスキルには「才能」が必要だと思っていましたが、ウェイクスラー教授の話を聞いていると、「そうすることが当たり前だ」という風潮が出来あがってしまって、皆が気をつけるようになると、特に才能がない人でも出来るんじゃないかな…という気がしてきました)。
さらに、ウェイクスラー教授が繰り返し強調していたのは、「判決そのものの内容よりも、判決がいかにして言い渡されるかの方が重要だ」ということでした。
「一方的」であるより、「相互的」と思わせるような言葉遣い、コミュニケーションが重要である。
加害者が、条件について、声を発することが出来れば、裁判官は、再犯を予防し、リスクを回避していることになる。
TJは、ありとあらゆる犯罪に適用できると考えている。
それは、単に、被告人に対して、軽く、優しく対応するというのではなくて、もっとその声を取り上げるということなのである。
大規模な法改正ではなく、小さな修正を繰り返していくことで達成できる、
というようなことを話しておられました。
面白かったのは、
・保護観察が成功裏に終了したときは、公式に認証して、褒めたたえよ。
・行為は非難してもよいが、行為者を非難してはダメ。
裁判官は、事を悪化させるようなことは一切すべきではない。
・裁判官は、何であれ、良好な部分、良い性格についてコメントすべき。特にそれが刑の軽減に役立つ場合には。
・仮に、良好な部分が量刑に影響しない場合であっても、良い部分に言及することは、有益な種を蒔くことになる可能性があるから推奨される。
・そして、このようなTJ実務の裁判での活用は、裁判官の職業上の満足感にも貢献する、
というような考え方でした。
私は、修習生のとき、刑事裁判の修習で、判決文の起案について、
指導いただいた部長から、量刑理由を書くときは、まずは悪情状を先にもってきてあげつらね、
(それが被告人を処罰する理由だから)、
それから、ほんのちょろっと善情状を書く、
(善情状を書かないつもりはないけれど、犯罪を犯している認め事件では、善情状などさして存在しないという無意識の前提があったような気はします)、
と習ったような記憶なのですが、
ところが、TJの考え方は、全然、真逆!
被告人の良き点、(裁判中の治療など)良好に進行している点をおおいに褒めたたえよ!!
悪い点については、行為の悪は指摘してもよいが、行為者の悪は指摘しなくていい、
そんなことをしても良い結果にはつながらないのだから、余計なことは言わなくていい!!!
裁判官たる者、事態を悪化させるようなことは一切すべきではない!!!!
という感じでしょうか。
裁判官は、自分が使う言葉に配慮し、微妙なニュアンスある言葉を駆使出来ねばならないことを強調しているのも非常に興味深い点です。
そうなのです。
言葉は生き物!
配慮とニュアンスを含んだ言葉が、人を向上させ、状況をよくする秘訣なのです。
というわけで、現在の日本の刑事裁判とは大いに異なる治療的司法の権威の話は、実に興味深かったのでありました。
その後は、日本の治療的司法の現状について、パネリストの指宿信先生(成城大学)、中村正先生(立命館大学)、藤本哲也先生(矯正協会)、松本俊彦先生(精神科医)、水藤昌彦先生(山口県立大学)から、お話がありました。
【指宿信先生】 【中村正先生】
【矯正協会 藤本哲也先生】 【精神科医 松本俊彦先生】
【水藤昌彦先生】
今回のシンポジウムの入場者数を思うと、日本でもこの動きはまだ地表に出ていないだけで、今後、おおいに拡大していくのではないかという思いを強くした大会でありました。