立って行う証人尋問・被告人質問 ~むしろ、立ちたい人達もいるようだ~

昨日、大阪高裁第3刑事部で控訴審の審理を受けた際、被告人を座らせて質問しようとすると、

裁判長が、「体が悪いとか、立ったまま行う不都合がありますか」と尋ねられ、(暗に立ってやれと言われて)、

価値観の違いを感じて、衝撃を受けたという話を書きました。

 

 

 

 

そこで、周囲に意見を聞いてみたところ、懇意にさせていただいている精神科医の福井裕輝先生は、

「私は月に2回くらいは証人として尋問に立っていると思いますが、座らされる方が苦痛に感じてました。

主導が、裁判官に握られているような感覚がするからです。」と言われ、むしろ、法廷では立ちたいとおっしゃいました。

 

 

また、薬物依存回復支援団体であるアパリの事務局長尾田真言氏も、

「何年も前の話ですが、大阪高裁で情状証人に立った時、裁判長から着席するように言われなかったので、立ったままで証言したことがあります。

私の場合は立ったままの方が声が通って良いと思いました。

この14年間で200回くらい情状証人に立ったけれど、立ったままだったのは、その1回だけでした。」

と話して下さいました。

 

 

私は、鑑定医であった医師が、プレゼンテーションをするときに立って話しておられたとき以外は、

証人であっても、被告人であっても、立ったまましゃべっていた(しゃべらされた)経験がなかったので、

昨日の控訴審の裁判長の言葉には、価値観の違いを感じて、ものすごい衝撃を受けたわけです。

 

しかし、他の方々の意見も聞いた上で、よくよく考えてみると、立って話す方が良い場合もあるのかもしれないと思うようになりました。

 

裁判官と対決できるだけの知識と力のある専門家証人たち(精神科医や支援団体の人)は、むしろ、法廷で立ちたいと思っていることがわかりましたし、

被告人も、今まで座るものだと思い込んでいたので、あえて「被告人質問のとき、立って話したい?座って話したい?」なんて、聞いたことがなかったのですが、

もしかしたら、自分は立ちたいという被告人もいるかもしれないと思うようになりました。

 

 

年配の弁護士の言葉を聞いた印象では、

従来は、自白事件の被告人について、被告人質問のとき立たせて聞いて、否認事件は座らせていたのかな?というような印象でしたが(時間がかかるからでしょうか?)、

それは逆で、

認めて反省している自白事件こそ、椅子をすすめて緊張をほぐして聞いてやるべきで、

闘いを挑んでいる否認事件こそ、本人が逃走や暴力のおそれがない安全な人で、

「自分は時間がかかってもかまわないし、体力に問題はないから、立って話したい」と言うのであれば、

立って話すことを認めるべきなのではないかと考えるようになりました。

 

 

相手に椅子をすすめて、座ることを促してから話し始める行為には、相手を受け入れ、話を聞くというノンバーバルなニュアンスがあり、

立ったままで、真正面に向き合って話す行為には、対決するというノンバーバルなニュアンスがあるのではないかと思うのです。

 

であれば、罪を認めて謝っている人を立たせて話をさせるのは、

例えて言うなら、教師が、まだ幼く、自分より明らかに弱い立場の子供を立たせ、

体罰はしないまでも、精神的緊張を強いて威圧しているような感じで、よくないと思うのです。

 

罪を認めている自白事件こそ、椅子に座らせ、緊張をほぐした上で、

「なぜこんな悪いことをしたのか。反省しているのか。今後はどうするつもりか。

自分の言葉できちんと話してみなさい」と、問うべきではないでしょうか。

 

 

他方で、否認事件の場合は、「自分はやっていない。違う」と言っているのだから、

対等な立場であることを認め、立って話すことも許すべきなのではないでしょうか。

 

(裁判長としても、座って話したいと言った自白事件の被告人には、「座らせなければならない理由がありますか?」と聞いておいて、

否認事件の被告人が、「立って話します。私は健康ですから、配慮は無用です。」と言うと、

今度は、「立って話さなければならない理由が何かありますか」と聞いたら、それは矛盾ですよね)。

 

専門家証人もしかりです。

医師等が「立って話したい」と言ったら、立たせてもいいということではないでしょうか。

 

(被告人が立って話さなければならないならば、証人が座らなければならない理由はないのではないでしょうか。)

 

私は、証人も被告人も、必要性がない限りは、座って話すのが当たり前だと思っていて、

それ以外の体験はしたことがなかったので、昨日の出来事はとても衝撃的に感じたけれど、

大阪高裁の裁判長が、「理由がない限り、立って話せ」という訴訟指揮をしておられるなら、

他の法廷でも、絶対、座らなければならない理由なんてないのではないでしょうか。

 

立って話したい人は、実は、たくさんいるらしく(知らなかった!)、そういう人は、法廷で立って話してもいいなんて、

まさに、「目からうろこ」です。

 

考えが深まる契機とみれば、たまに価値観が違う裁判官にあたるのも「良いこと」なのかもしれません。

 

 

 

 

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