愛するということ エーリッヒ・フロム ~最近読んだ本から~
紀伊国屋書店に行くと、入り口とレジ前に白い表紙にピンクの帯の本の山が…。
題名は、「愛するということ」、エーリッヒ・フロム(新訳版)となっていました。
夏木マリさんと杏さんの推薦だとか。
ふと手にはとったものの、流行本か、まぁ、いいや…と買わずに店を出ました。
しかし、家の布団の中で、以前から好きなジョゼフ・マーフィーに関する単行本をふと開くと、あら、まぁ、あの本の名前が書いてあるではないですか!
さらに、裁判所近くのセブンイレブンでつい買ってしまったPHPの本を開くと、
(この裁判所近くのコンビニはこういう精神系のミニ本がセレクトされておいてあるんです。
そういう方がいらっしゃるんでしょうね。
コンビニの雑誌コーナーの手前にひそかに並んでいるミニ本って、そのお店の方の価値観が出ますよね)、
そこにも「愛するということ」、エーリッヒ・フロムの記載が…。
こういうシンクロニシティが起こるときは、買っておけという合図なので、めんどくさがらずに買うというのがお約束!
で、買って、読んでみたわけです。
うーむ、ここ最近、読んだ本の中で、最も高尚な響き。
こんな本はしばらくぶり。
短い言葉にエッセンスが詰まった本でした。
愛は、成熟によって到達する技術なのであり、重要なのは、愛されることではなく、どうやって愛するかということだと。
(私たちは、愛されることばかりに夢中になっている)。
愛は、突然ふってわいてくる、恋愛に「落ちる」ような感情をいうのではなく、
成熟によって、意思をもって、そこへ「とどまる」ことを習得すべき技術だということが書いてありました。
こういうものを読むと、つい被告人との関係で考えてしまう私。
重大な罪を犯しているケースにおきかえて、じっと考えてしまいました。
私は弁護人だから、それでも彼を愛せるけれど、これが被害者だったらどうであろうか。
出来るだろうか…。
でも、だからといって、「あなたが、あなたの家族が被害者だったらどうですか!、許せないでしょう!」と迫る、
あの決まり文句も何かが違う気がする。
さらに、エーリッヒ・フロムは、愛するには勇気と信念がいると言います。
愛は、他人の可能性を信じることであり、人間の可能性を信じること。
人間は、まだ平等・正義・愛の原理に基づいた社会秩序をうち立てるには至っていないけれど、
きっとうち立てることができるという確信を抱き、
それを他者が否定し、受け入れなくても信じ続ける。
そのためには勇気と信念がいる。
困難に直面したり、壁にぶち当たったり、悲しい目にあったとしても、
それを自分に起こるはずのない不公平な罰だと思わずに、自分に課せられた試練と受け止め、
それを克服すればもっと強くなれると考えるには、勇気と信念がいる…。
「勇気と信念」とだけ聞いていると美しい言葉だけれど、
それを行為で表そうとすると、とても辛い、痛みと悲しみを伴うものになる気がします。
いつの日か、重罰を科せられたこの目の前の被告人を許し(どうすれば許せるのか、私にはまだわからないけれど…)、
より人間的に扱える日がくると信じ続けるには、勇気と信念がいる。
非常に重い現実を突き付けられた気がした本でした。
(マジでちょっと暗くなりました。でも、あまり深刻にならず、軽く考えるのが秘訣なのもしれません)。
久しぶりに出会った高尚な本の感想でした。
(心に残ったところはまだあるのですが、それは次回にします。)