法廷傍聴 ~被告人質問と弁論の時間について~
先日、東京の某有名大学の学生さんがかかわってしまった覚せい剤密輸事件の法廷傍聴をしてきました。
この事件では、運び屋とされた学生さんも、大学卒業直後だった紹介者の方も、覚せい剤について故意はなかったとして、無罪を主張しておられます。
審理を全部傍聴することは、時間的に到底不可能だったので、書証の取調べの一部(メールのやり取り部分が主)と、被告人質問、論告・弁論部分だけを傍聴しました。
証人尋問などは見ていないですし、判決はまだこれからなので、法廷で感じた心証はおいておくとして、
我が身への自戒の意味もこめて、審理を傍聴した感想を一言…。
「長すぎる被告人質問と弁論は、百害あって一利なし」
「被告人質問と弁論は少し言い足りないと感じるくらいがベスト」
今後の教訓にしたいと思います。
被告人が無罪を主張している事案で(認め事件でも同じですが)、
普段から被告人に接して、その人間性を知り尽くしている弁護人が、どうしても語りたくなる気持ちは実によくわかります。
私も公判前整理手続きで、裁判官からAQの時間を削られたときは、思わず「ムッ」としたものですが、
しかし、しかし…です。
聞いている他人の身になると、長時間のAQと弁論は、非常に辛いものが…。
傍聴席の椅子は少しでも動くとギシギシと音を立ててしまうので、身動きしづらく(法廷自体の居心地はいいのですが)、
私は、体重を右にかけたり、左にかけたりしながら聞いていたのですが、
壇上の裁判員の方たちは、ときに時間オーバーすらした審理を身じろぎもせず(壇上では身じろぎすらしにくいですよね)、きちんと聞いておられます。
その姿には、ちょっと尊敬の念を感じてしまいました。
それとともに、心の中で、せめて裁判員と裁判官の方達が座っている椅子が、座り心地のよい椅子でありますように…と祈っていました。
もっと長時間にわたる審理もあることを思うと、椅子には多少高額でも国家予算を投じるだけの価値があるのではないでしょうか。
弁護人は、他の弁護人の弁護活動を見る機会がないため、自分を客観的に振り返る機会もなかなかないのですが、
まさに「他人のふり見て、わがふり直せ」
熱心な弁護人であればあるほど、重要なテーマは、「削ること」。
そもそも熱心な弁護人でなければ、「もっとやれ!」となり、削ることなど問題にならないわけで、
そういう意味では、この事件の弁護人達はとても熱心だったわけです。
事件と被告人を知るがゆえに語りたくなる葛藤を乗り越え、
必要なところは残しつつ、「印象的に語る」ことを追求せねばならないと感じた法廷傍聴でした。