ちょっと良いお話 ~拘置所に流れるラジオ放送から~
暑いですね。
裁判所や拘置所へ行く道すがら(岸和田支部などは特に…)、アスファルトから吹き上げてくる熱風を感じます。
さすがの私も、今年の暑さには勝てず、とうとう夏風邪にやられて体調を崩してしまいました。
さて、気分を変えて、
今日は、先日お聞きした「ちょっと良いお話」をご紹介したいと思います。
まだ20代初めの若い男の子が、覚せい剤密輸事件に巻き込まれてしまいました。
詰め込まれていた覚せい剤の量は途方もなくて、現在の裁判基準のままでは重い量刑が予想されます。
事件以来、彼のお父さん、お母さんは、毎日のように拘置所に通い詰めておられます。
たぶん、息子さんに対して、
「どんなことがあっても、君と一緒に人生を歩いていくからね」というメッセージなのでしょう。
そんな中、先日、息子さんの誕生日がめぐってきたのです。
プレゼントを渡したいけれど、拘置所で差し入れられる物には制限があります。
それに、お母さんは、彼に本当に送りたいものは何なのかをずっと考えておられました。
そんなとき、お母さんは、
息子さんの誕生日に当たる日に、拘置所内で、
お昼の30分間に、あるラジオ番組が流れると聞いていたことを思い出したのです。
お母さんは、彼に「メッセ―ジ」を送ろうと考えました。
お母さん: 「誕生日にラジオネームは大阪の○○でメッセージを送るから聴いてや!」
彼: 「そんな、うまい具合に読まれるか??」
お母さん: 「やってみないとわからない!!とにかく駄目もとで聴いてよ」
そして、息子さんの誕生日当日、お母さんは、ラジオ番組に
「息子へ。22歳の誕生日おめでとう!! 生まれてきてくれて本当にありがとうね」
とメッセージを送りました。
すると、なんと!
番組終了3分前にそのメッセージが読まれたのです。
翌日、面会に行ったら、彼が「聴いた!!」と笑顔で嬉しそうに言ってくれました。
房内では泣いた人もいたそうです。
彼はみんなに「誕生日おめでとう。」と言ってもらえたそうでした。
お母さんは、こんな小さな幸せがみんなの心に届いて、とても嬉しく思ったのだそうです。
「生まれてきてくれてありがとう」という言葉は、拘置所にいる人達にとって、
どんな高価な物にもまさる宝物のように感じられらたはずです。
先日、大阪弁護士会の夏期研修で、様々な矯正施設での勤務経験をお持ちである龍谷大学の浜井浩一教授が、
「市民が刑事裁判にかかわる意義 ~裁判員制度と刑罰の目的~」と題する講演をされていました。
その中で、浜井教授は、「現在の社会は、異質な者、犯罪をしそうな人を排除しようとする。
しかし、孤立化しなければ、人は犯罪をしないでいられるのだ」と述べておられました。
そして、その具体例として、認知症のおじいさんがビールビンの窃盗犯として処罰されている例や、
覚せい剤の密輸事件に末端の運び屋として利用され、服役している人の例を挙げておられたのです。
このような人達は、本質的に悪質なのではなくて、
福祉システムがあったり、相談する人がいれば、犯罪者にはなっていない人達です。
言い方を変えれば、我々のあり方が、彼らを「犯罪者」にしているのです。
いかにして、孤立化を避けるか。
孤立化させないという意思が我々に本当にあるのかが、問われていると思います。
このことは、犯罪を犯す前もそうですが、
誤って犯罪を犯してしまった後にも当てはまるのではないでしょうか。
浜井教授は、現在のシステムでは、
刑罰に「更生」の視点がなく、「応報」の視点しかないと述べておられました。
刑事弁護をしていて、本当にその通りだと思います。
いくら訴えても、訴えても、謝罪して罪を償う努力をしても、
刑罰の量刑は、行為態様等の犯情(つまり「応報」)で決まってしまい、
更生は一般情状に過ぎないというのです。
さゆりちゃんのケースもまさにそうでした。
しかし、それは本当に正しいのでしょうか?
人は誤ってしまうこともある、
罪を償う努力をしているのに、それは本当に量刑には考慮できないのでしょうか。
そういう考え方の方が、むしろいびつで、素朴におかしいとは感じませんか?
裁判員の方々には、そういう「素朴な疑問」を刑事裁判に持ち込む風穴になっていただきたいと思います。
処罰して、苦痛を与えれば、物事が解決すると考えるのは幻想です。
北風と太陽の童話のごとく、お母さんの示した「愛」こそが、人を救う原点なのかもしれないな…。
そんなことを考えた、「ちょっと良いお話」でした。