再犯 ~特に、依存症でのスリップに、弁護人として~
薬物依存症であれ、クレプトマニア(窃盗癖)であれ、「依存症」の回復過程にスリップはつきものです。
医療すなわち治療の世界では、このことは理解されていると思いますが、刑事司法の世界では、それは「再犯」になります。
弁護人として、「再犯に対してどう感じますか?」と問われたら…?
「今まで治療してきたのに…、もう二度としませんとあれほど反省の言葉を口にしていたのに、また再犯したのを目の当りにして、あなたは失望しますか?」と問われたら…?
この問いかけに対する答えは、人それぞれだと思いますが、
私の場合は、全く失望などしません。
全然平気。
もちろん、再犯自体は非常に問題で、困ったことです。
行為自体は許されることではないのですが、ばつが悪そうにしている被告人を見ると、私は思わず微笑んでしまうのでした。
よく言えば、行為を憎んで、人を憎まず…ということでしょうか。
私が全く失望しない理由としては、
①まず、依存症の場合は、回復過程にスリップはつきものであることが挙げられます。
その悪循環からなかなか抜けられないからこそ、「依存症」なのです。
スリップすら全くしないですむとしたら、それはそもそも「依存症」とはいえないのではないでしょうか。
②2つ目は、私の刑事弁護観(というより、人生観でしょうか?)にあります。
私は、弁護人として、被告人が更生するようにと刑事弁護活動を展開し、ときに治療へとつなげているのですが、
究極的に追及するべきものは、「被告人を変えること」ではないと考えています。
なぜなら、被告人の人生は、彼ら自身のものであり、私のものではありません。
他人を変えることが出来るなどというのは、「幻想」であり、「妄想」だと思うのです。
私はそんなことは考えていません。
本人が変わろうと決意しない限り、人は変わらない。
これが真実です。
私はその手助けをしているだけなのです。
では、私が刑事裁判の中で、究極的に追及しているものは何なのか…。
それは、「私が、被告人に対して、どうあるか」だけだと思います。
私が被告人を前にして、どうふるまい、彼らをどのように扱うのか…。
それだけが問題なのです。
彼、彼女(被告人)がいるからこそ、私が何者であるかがわかる。
私が何者であるかが表現できる。
そう考えると、私が刑事裁判で表現しているものは、被告人の主張、被告人からみた真実であると共に、
私自身の考えや価値観なのでしょう。
刑事裁判や接見の中で、「くそー、こいつー(怒)」と腹が立った被告人ほど、
あとから見ると、量刑でいい結果が出たり、こちらも成長したような充実感があったりするものなのです。
今日は、依存症でのスリップや再犯について、感じていることを書いてみました。