裁判員裁判の冒頭陳述(1)
そこで、今日は、裁判員裁判での最初の手続きである「冒頭陳述」について、普段弁護人として感じていることを書いてみたいと思います。
冒頭陳述は、裁判が始まった直後、罪状認否の後に、検察官と弁護人によって行われるもので、それぞれが裁判で立証しようとする事実や法律上の主張について語る手続きです。
弁護側にとっては、まさにこれから始まる裁判で伝えようとする「ストーリー」を語るもので、よく映画の予告編に例えられます。
検察と弁護の双方のストーリーが語られることで、双方の主張の違いや争点が浮き彫りになるような冒頭陳述が理想とされています。
そうすれば、その後に続く証拠調べの中で、裁判官や裁判員らが証拠から何を認定していけばよいのかがよくわかるからです。
私は、この冒頭陳述がかなり好きです。
裁判員裁判では、通常弁護人は2名で担当しているため(連日開廷なので、2名いないと本当に手が回らなくて辛い)、普通は、相弁護人との間で、冒頭陳述と弁論のどちらかを分け合って担当します。
比較すれば、最後の主張を語って論戦する「弁論」の方が重要ということになるのでしょう。
ですから、弁論をやる方がいいということになるのが通常だと思いますが、私はいつも、どちらも私にやらせてくれ!という言葉が喉まで出かかるくらい(実際は、我慢して言いませんが…)、冒頭陳述も好きなのです。
理由は?と聞かれたら、それはやはり、私にとって、冒頭陳述とは弁護側の主張がさく裂する「喜びの瞬間」に感じられるからではないでしょうか。
それまで、被告人は耐えています。
つらい取調べ、長期に及ぶ身体拘束期間、公判前整理手続きでは、検察官からの証明予定事実にさらされ、非難され、弁護側が採用してほしい証拠は削られてしまいます。
検察官は、ほぼすべての事件で、被告人を悪人と決めつけ、信じて疑っていません。
その間、犯罪者扱いされながら耐え続ける被告人とともに、弁護人も耐え続けることになります。
冒頭陳述は、そんなふうに耐え続けた弁護側が、自らの主張とストーリーを語る最初の瞬間なのです。
(それまでに、弁護側も「予定主張」は出していますが、それは予定している主張でしかなく、ストーリーといえるようなものではありません)。
それは、私にとっては、何というか、喜びの瞬間のように感じられるのでした。
先ほど、冒頭陳述はよく映画の予告編に例えられると言いましたが、刑事裁判にはまさに映画のような側面があるように思います。
なぜなら、「裁判」という限られた時間の中で、その刑事事件を表現していく作業は、さながら原作本を映画化するかのごとき作業だからです。
弁護人は、ちょうど映画監督のようなものでしょうか。
そもそもこの事件はどういう事件で、なぜ起こったのか。
それをどの証拠で、どのように表現するか。
被告人質問1つとっても、どこに重点を置いて、何を語らせるのか。
この証人には、何を語ってもらうのか…。
弁護人によって、切り口が大きく変わる可能性があるのです。
しかも、刑事事件には原作本すらありません。
真実は神のみぞ知る世界である以上、既に決まった原作などあるはずがなく、脚本を作っていく作業から始めなくてはなりません。
映画と違って絶対に動かせないのは、キャスティングだけではないでしょうか。
あと、他の証拠から確定している客観的事実も動かすことはできません。
しかし、それ以外の事実は、そもそも発掘・調査の段階から、映画監督である弁護人の手にかかっているわけで、あたかも同じ原作本を映画化しても、監督のセンスによって作風が全く変わってしまうように、担当する弁護人によって、ストーリーの印象が全然違ってくることがあるのでした。
これまで私が担当した裁判員裁判事件では、全面否認事件などありませんでした。
行為態様を争ったケースはありますが、ほとんどが公訴事実に争いがないのみならず、検察官の証明予定事実についてすら、基本的な事実関係には争いがないケースでした。
しかし、冒頭陳述は、いつも検察官とは全く違うストーリーになりました。
意図的に異なるものにしようと考えたことなどありません。
自然にやっているだけで、全然違うストーリーになってしまうのです。
被告人と事件を本当に理解すれば、検察官と同じストーリーになどなるはずがないのでした。
それは、被告人にとっての真実であるとともに、弁護人にとっては「自分の作品」のような面があって、そこに喜びを感じるのだろうと思います。
また次回、この続きを書いてみたいと思います。