被告人のメールから ~裁判を受けた感想~

先日、被告人の方から、裁判の感想を書いたメールをいただきました。

このメールに、私は返す言葉がありませんでした。

ご紹介してもいいと承諾をいただいたので、掲載します。

【メールから】

それにしても、裁判というものがこんなにいい加減なものだとは思いもしませんでした。

 裁判で明らかになるのは、真実ではなく、客観的事実だなんてあきれ果てました。

「客観的事実」と言えば、万人が認める用な言い方ですが、実のところは裁判官の主観でしかないのですから。

 被害者の言うことは全て事実で、被害者側の証人が分からない、覚えていないということに対しては、覚えていなくても不思議ではないと言う、

そして加害者の言うことは信用できないと切り捨てるのですからなおさらです。

信用する、しないは、個人の価値観なのですから、そんなもので判断されるなんて

ばかげているとしか言いようがありません。

 書き出すときりが無いのですが、しょせん裁判なんて、「法曹界の言葉遊びでしかない」というのが実感です。

私は、このメールを読みながら、「それでも僕はやっていない」という映画の最後のシーンを思い出していました。

確か、映画の最後のシーンでは、最高裁の建物をバックに有罪判決が朗読されていたような記憶なのですが、

当時、映画を観ながら「よく出来てるわ。特にこの判決、まるで本物の判決みたい。」と、とても感心したのを覚えています。

日本の刑事裁判は、有罪率99.9%と言われていますが、最初から有罪方向でものを見ているというか、判決も有罪方向で証拠を後付け的に評価している感じが否めません。

実際、有罪方向で判決を書こうと思って書けば、それにそう形で証拠を評価して、いくらでも書けてしまうのです。

被告人にされた途端、もう普通の人ではなく、悪者なわけです。

量刑判断もしかりで、重くする理由の部分に、固めの犯情を理由づけにもってこられてしまうと、

(例:犯行態様だけとると、確かにひどいかな…と思う事案で、「犯行態様は極めて悪質で」という具合に…)、

それを崩すのは、現実には、非常に難しくなります。

でも、事件全体を見ると、これは正当な量刑評価ではないのではないか、事件や被告人の人物像をきちんと理解していないのではないかと思うときは結構あるのです。

無罪や軽い量刑評価を出すことに対して、もう少し自由な空気があればいいのに…と、いつも思います。

ここまで凝り固まってしまうと、無罪や軽い量刑が出ると、検察官の出世がとんでしまうとか、

判決が上訴審で破棄されると、裁判官の評価に影響するとかいうことにもなってしまうわけで、

こういう事実上の影響ほど、恐ろしいものはありません。

上記のことは、どんな罪名の刑事裁判でも当てはまると思いますが、

特に、一審が裁判員裁判だったりすると、控訴審以降でこれを修正していくのは絶望的な状況です。

あらためて、刑事裁判の事実認定と一審の重みを感じさせられた被告人の方からのメールでした。

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