赤城のアン ♪ ―クレプトマニア治療体験記 - ♪ 

 

このページでは、クレプトマニアから見事な回復を果たしたアンさん(事件当時52歳)のケースをご紹介します。

赤城高原ホスピタルで入院治療した方の1人です。

 

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このHPに掲載させていただいている藤乃さんは、摂食障害から発展したクレプトマニアで、盗品は食品でした。

ある意味わかりやすくて、理解してもらいやすいケースだったといえるでしょう。

しかし、アンさんに摂食障害はありません。

盗品も、食料品ではなく、化粧品や美容関連の商品でした。

なかなか理解されにくいケースだと思います。

 

アンさんの事例では、クレプトマニアには摂食障害と合併したケースばかりではなく、多様なケースがあること、

しかし、そんな理解が難しいケースであっても、十分回復が果たせることを知っていただければと思います。

 

クレプトマニアの方たちは、成育歴や幼少期に身に付けた価値観に問題があるケースが多いのですが、アンさんのケースはまさにそんなケースでした。

 

 

アンさんは、会社経営をしている父、母、2つ上の兄、アンさん、4つ下の弟、祖母(父方)という家庭で育ちました。

 

お母さんは、とても美しくて、優しくて、アンさんにとっては自慢のお母さんでした。

アンさんは学校参観日に、美しいお母さんが来てくれることが嬉しくて、鼻高々だったといいます。

しかし、そんな中、アンさんが7歳のときに、お父さんが亡くなってしまいます。

 

お祖母さんは、アンさんの記憶の中では、いつもタバコをスパスパ吸いながら、昼間からお酒を飲んでいました。

まだ、家長制度が強い時代だったせいでしょうか、お祖母さんは、お母さんに、お父さんの死亡保険金を渡しませんでした。

大好きだったお母さんは、お父さんが亡くなった後、いつも悲しんで泣いていて、お金に苦労していました。

アンさんは子供心に、お祖母さんはお母さんのことを嫌っていて、アンさんもおばあちゃんから嫌われていると思っていました。

 

また、兄は、些細なことで妹であるアンさんに暴力をふるいました。

例えば、「勉強しろ」とか、「勝手にジュースを飲んだ」とか…、そんなことでアンさんを殴るのです。

暴言を吐かれるのは四六時中でした。

 

しかし、お母さんは、それを見ても、お兄さんを止めませんでした。

どうして止めないの?私が女の子だから?

 

 

広い大きな家で、外見は立派な家庭に見えましたが、家の中は、いつも冷え冷えとしていました。

 

アンさんも、外では元気いっぱい、明るく、ものおじしない雰囲気を漂わせていましたが、

心の中は、家と同様、いつも冷え冷えとしていて、コンプレックスを抱えながら成長していきました。

 

外見上の明るさや人当たりのよさと、内面に抱えたコンプレックス・自己否定感・自責の念や罪悪感…。

相反する二面性を抱えながら成長したアンさんの不安定さは、のちに、クレプトマニアへとつながり、万引き行為で、
底なし沼のような自己不全感を癒し、解放感を得ようとする行為へとつながっていきます。

 

アンさんは、本件事件より以前にも、既に何度も逮捕されて、裁判も経験していました。

再度の執行猶予を受けたこともありましたが、再犯してしまい、受刑を経験しました。

刑務所の中では、アンさんは、いわゆる「スーパーA」といわれる優良受刑者でした。

もちろん、出所時には、「もう二度と窃盗なんかしない」と思っていたのです。

 

出所後は、パートで良い職場を得て、優秀な成績で、表彰されたこともあったほどです。

しかし、受刑しただけで、現実の生活が変わることはありませんでした。

歯車がきしみ始めます。

 

とうとう万引き衝動を抑えられなくなってしまい、万引きが再開…。

さらに、事件当日、アンさんは、久しぶりに街に出たのですが、いつもと違う華やかな街の中で、
一人だけで過ごす時間が出来たことで、嬉しくなってしまいました。

万引きスイッチが入ったアンさんは、まるで暴走列車のように、いくつもの店で洋服やアクセサリーなどを万引きしていきます。

そして、最後の店舗であった被害店舗で、保安員さんにみつかって、現行犯逮捕されたのです。

 

驚いたご主人は、アンさんのために奔走されました。

そして、私に依頼があり、私は、被害店舗以外の店舗に、謝罪と買い取りによる被害弁償に出かけます。

その他の店舗との間では、警察の捜査段階からある程度話がついていたこともあって、商品を買い取らせていただけましたが、本件での起訴は免れませんでした。

 

「こんなことはこれで最後にしたい」と治療を決意したアンさんとご主人は、起訴後、保釈を得て、赤城高原ホスピタルでの入院治療を開始しました。

アンさんは、すべてを話せる仲間を得て、深い自己分析に入っていき、回復を果たします。

 

アンさんの事例に特徴的だったのは、

① クレプトマニアから回復する上でのキーパーソンであったご主人と一緒に、臨床心理士による「カップルカウンセリング(夫婦カウンセリング)」を受けたこと、

一審の途中で、自身が運転中のバイクで転倒し、骨折をしてしまい、その治療の必要性から、控訴して、保釈を継続したことでした。

 

バイク事故に遭ったことは全くの偶然でしたが、結果的に、一審判決後、さらに3~4か月の治療期間が得られたのです。

この間に、アンさんは、まるで「期が熟した」とでもいうかのように、過去の問題を次々に解消していきました。

 

今、アンさんもご主人も私も、アンさんはもう再犯しないで、残りの人生を過ごせるだろうな…という深い実感を持てていると思います。

 

では、さっそく、アンさんに、治療で気づくことが出来た、「クレプトマニアに陥っていったのはなぜだったのか」や、「回復に至る価値観・考え方の変化」について、聞いていきましょう。

 

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◆ 幼少期の家庭環境は、アンさんの成長にどんな影響を与えたと思いますか。

 

小さいころの私の記憶は、父の盛大なお葬式の日から始まります。

大勢の参列者、何人ものお坊さん。

顔から生気をなくした母…。

私はまだ7歳で、ことの意味がよくわからない上、大勢の人が家の中にいることが嬉しくて、

3歳の弟と家の中を走り回っておばあちゃんに厳しく叱られたことなどを鮮明に覚えています。

私の父の記憶は、度あるごとにゲンコツで頭を叩かれ、叱られたことしか覚えていません。

 

母は祖母にいつもビクビク怯えていて、父が亡くなってからはお金がなくて、いつも自室に閉じこもって泣いていました。

その泣き声は、今でも思い出されます。

祖母は典型的な男尊女卑の考えの持ち主で、なのに、なぜか長男である父より長女の叔母を愛し、

父を躾として柱に括りつけ、棒で叩いたそうです。

 

なので、父も母もこの祖母の言うことや、やることに絶対に反抗できなかったようです。

この「躾という名の暴力」は負の連鎖として、父、そして兄に…と受け継がれていきました。

 

生家は周りのどの家より立派で大きく広かったですが、いつも寒々としていました。

父は夜もあまり帰って来なく家族全員で食卓を囲んだと言う記憶はほとんどありません。

 

支配者である祖母が私を嫌うので、母も兄も、私を認めるというか、

愛することを拒まざるを得なかったのではないかと思います。

 

ですが、その頃の私は我が家がそんな複雑な状況であることはわかりません。

 

中学生の多感な時期に兄から日常的に暴言を浴び、また暴力を受けていましたが、母はそんな兄を止めませんでした。

私もこんな状況になっているのは、私が母や兄の気に入るように出来ない自分が悪いせいだから仕方がないんだと思い、

兄に暴力は止めてと言えなかったし、母にもお兄ちゃんに止めるように言ってと言えませんでした。

 

このときから自己を肯定できないというか、自己を否定する性格になったのではないかと思います。

 

◆ お母さんとの関係は?

 

母は、本当に華やかで美しく、洋服のセンスも田舎では際立っていました。

母が参観日に教室の後ろに立ってくれることは嬉しくて、その日は一日有頂天でした。

その大好きな母が、父が亡くなってからは、いつもお金に苦労して、暗い顔をして泣いてばかりいる…。

その姿がかわいそうでかわいそうでたまりませんでした。

 

私達兄弟三人を女手一つで苦労に苦労を重ねて育ててくれている母を助けたいと強く思いました。

 

今、母は脳梗塞の後遺症で半身が麻痺となる身になり、兄も弟も十分な母の助けとならないとなると、その思いは一層強くなってしまいました。

 

母を助けるのは私に課せられた「使命」というか「任務」で、私にしか出来ないとまでも思うようになってしまいました。

母も私を頼ることが当たり前になっており、私がいなければ困ると言います。

 

けれど、母は私を認めることはないのです。

 

私が今あるのは夫のおかげだと言い、いつまでたっても、いくら尽くしても、私という人間を承認しないのです。

 

私は母が一番好きなのに、母は私のことが一番じゃない。

兄や弟の次が私で、それが悔しくて悲しかったのです。

 

◆ お兄さんとの関係は?

 

最悪です。

幼い頃から思春期にかけて兄から受けた暴言や暴力を恨みに思っていて、長年、接触することすら避けていました。

 

 

◆ 家族の中で、どんな思いを抱えていたと思いますか。

 

家の手伝いを女の子だからと私にばかり押し付ける母の理不尽さにいつもくすぶっていました。

 

なぜ、兄や弟は手伝わなくても叱られなくて、私は手伝わないと叱られるのか。

また手伝いをいくらしても褒められることなどなく、私は手伝いをして当たり前になるのか。

 

兄弟間の不平等さにいつも納得がいかない思いを抱えていたのですが、そういう思いは誰にも言えず、

女は家事をするものだから仕方がないし、お母さんを助けなければならないんだからと諦めて我慢して成長しました。

 

 

◆ そのような成育歴や育った家庭環境が、どんなふうに万引きにつながっていたと思いますか。

 

父が亡くなってからは、家にお金がなく、母はいつも泣いて苦労をしていることをよくわかっていましたから、欲しいものがあっても言えず、我慢をしていました。

しかし、ある日、祖母の財布にお札がパンパンに入っているのを見たとき、母があんなに泣いているのに、おばあちゃんのお財布にはこんなにお金があると思うと腹が立ち、そのお札を一枚抜き取りました。

これが、私の初めての盗みです。

 

何か問題が起こると、誰にも相談せずに、後先を考えず行動してしまったり、目の前の利益に走る思考回路になってしまった原因がここにあるのかもしれません。

 

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◆ ご主人との関係性については、どう思いますか。 (良い点、悪い点、万引きに繋がっていた点など)

 

夫の良い点は、出会ってから結婚して何十年経っても変わらず私を愛してくれること。

真面目に働いて家族を養ってくれたこと。

(いわゆるマイホームパパです。)

 

また、何度逮捕されても、刑務所に行って、その後、再犯しても、私を見捨てず、立ち直らさせようと一生懸命になってくれたこと。

いつも最大の努力をしてくれる所。

どんな困難に直面しても前向きに解決していってくれ、今回のことでも、病気なら治せばいいのだと、一切責めない所です。

 

悪い点は、人の意見に開口一番、否定的な発言をする所とすぐに怒る所かなと。

 

私は、過去兄から受けた暴言により、言葉に非常に敏感で、感情的な言葉や否定される意見を言われると激しく傷つき、もうそれ以上自分の思いが言えなくなってしまいます。

 

長年、自分の犯した万引きで、夫に一番迷惑をかけてきた引け目もあり、夫の前では萎縮してしまいます。

そうなると自分の気持ちに蓋をし我慢し、抑圧していくことになります。

 

何か欲しいものがあっても言えないから、お金も使えない。

お金を使えないから万引きして物を手に入れる…という悪循環になっていきました。

 

 

◆ 自分のどんな考え方や、価値観が万引きにつながっていたと思いますか。

 

私にとっては、服役後も、夫や兄弟達は何も変わっていないように思えました。

社会復帰を果たして、仕事でも頑張って表彰を受けるまでになっているのに、夫が評価してくれないのがとても不満でした。

また、私は嫁いだ身であるのに、こんなに必死で実母の面倒を見ているのに、兄や弟は私が勝手にやっているのだろうと遠巻きに見ているのも不満でした。

お金のことも、どこからどこまでがうちのお金で、どこからが母にかかったお金なのかわからなくなっていました。

夫も私の母親にかかったお金を夫が働いて稼いでくれたお金を使うことには賛成する訳がないので誰にも言えず、計算するのも面倒で、結局、万引きする手段を短絡的に選んでいました。

 

万引きは、うまくいかない現実を、うまく回す魔法の杖のようなもので、それをすることによって、現実が回りました。

母も喜ぶし、弟に請求して自分が嫌な思いをしなくて済むし、夫にも家計の負担をかけなくて済む。

これが最良の方法で現実をうまく回す手段であると思っていました。

 

 

◆ 万引きすることで、どんな気分になるのでしょうか。

 

職場や趣味の仲間は私を認めてくれる。

その人達からの評価は、私にとってなくてはならないもので、さらなる評価を得るために、自分を美しくする化粧品や洋服が必要でした。

万引きは1円もお金を払わずしてものが手に入ります。

成功したときの快感と達成感は、私にとって最高の喜びで、我慢していた思いや不安感が解消され、孤独感も癒されていました。

これらを身につけた時の自分を想像して、これでまた他人から褒めてもらえると思うと嬉しくなりました。

その当時は、これ以上、私に喜びを与えてくれることはなく、

万引きすると幸せすら感じ、盗れないとガッカリしました。

 

しかし、今度捕まったら刑務所に行く、大きな代償を払うことになるとわかっていても、目の前の感情や痛みを何とかするためには、万引きをしないと夜も日も明けない感じでしたし、万引きすることで、心のバランスや感情のバランスを取っていた気がします。

 

◆ 万引きしたことで、背負わねばならなくなるマイナス面は?

 

物に囲まれて、劣等感や自己顕示欲が満たされるけれど、所詮それは盗品で人に堂々と言えません。

友達にも家族に嘘をつき続けないといけないので、苦しいし、孤立するし、自分を卑下しました。

あ〜、またやってしまった…と後悔と自責の念が絶えませんでした。

 

何よりも夫の前で正直でいないといけないのに、それができないので、感情を隠し、素直になれませんでした。

その私の挙動不審な態度から、夫は疑心暗鬼になり、ますます私を押さえつけるという悪循環に陥り、
夫婦の会話も少なくなり、関係性も悪くなって行きました。

 

◆ アンさんにも食料品や、洋服などの溜め込み癖があったようですが、どんな心理で溜め込むのですか。

 

買い物に行くときは万引きするつもりで行っているので家に何があるか、把握せずに行くので、何があって、何がないのかわかりませんでした。

お金を払わなくていいので、値段もよく見ませんし、手当たり次第にカゴに入れていました。

その結果、気がつくと家には同じようなものがたくさんありました。

 

盗っているときは不思議な快感が体中を走ります。

そして成功してお店を出られると、ほっとして、タダで手に入れられたことがとても嬉しかったです。

でも、盗っても盗っても、心が満たされることはありませんでした。

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◆ 赤城での治療を経たことで、被害店舗については、どんなふうに考え方が変わりましたか。

 

赤城での治療を経て、自分の気持ちを理解してもらうことで、相手の気持ちもよくわかるようになり、自分が痛いことや傷付くことは、相手も同じくらい痛くて傷つくことがよくわかりました。

それから、自分の問題を社会(万引きで)に迷惑をかけることによって解決してきたことにも気付きました。

 

赤城に入院中に、私の上履きが片方だけ盗まれる事件がありました。

私は、初めてクレプトされる側に立ち、この事件の為に自分の貴重な時間を奪われ、とても迷惑を被り、不快な思いもしました。

 

 

このとき思ったのです。

私は、今まで、こんなに不快な思いと迷惑を被害店舗の方に与えて、貴重なお時間も奪ってきたのだなと…。

被害店舗の方の気持ちが初めてわかった出来事でした。

 

また、これは、バイク事故による治療のための控訴後のことなのですが、控訴審の検事さんからの答弁書に

「他人のものを盗んではならないという子どもの頃から教えられる基本的な規範をあえて無視する犯行を続けてきた」という文章を目にしたときに、私は脳天を貫くほどの衝撃を受けました。

私は、罪悪感というものを一欠片も感じないで、ただ、捕まらなければいい、バレなければいいという自分のことしか考えない行動を繰り返してきたのだ、

お店のものは他人のもので、盗んではいけなかったのだということを今更ながらわかったのです。

この言葉は、私にとって、まさに目から鱗でした。

 

 

◆ 赤城でのミーティングにはとても熱心に参加されていましたね。

赤城でのミーティングで得たものは何だったのでしょうか。

 

赤城でのミーティングは、最初はこんな学級会の延長のようなものでクレプトが回復するのかと疑心暗鬼しかありませんでしたが、それでも、きっと何か得られることがあるのだろうと、毎回欠かさずミーティングに出席しました。

1ヶ月半くらいが経ったころでしょうか。

私の気持ちを代弁してくれる言葉やハッと気づかせてくれる仲間の言葉が耳に入ってくるようになったのです。

これはすごいと思いました。

よし、今度はどんないい話を聞かせてくれるのかな?

ちゃんと聞こう。

忘れないようにしようと傾聴するようになり、それに牽引されるように、自分も本当のことを言いたい、聞いてもらいたい、知ってもらいたいと思うようになりました。

 

ミーティングでもプライベートな時間のおしゃべりでも自分のことを包み隠さず話しても軽蔑されないし、バカにされないことが何よりも安心で嬉しかったです。

仲間は共感して、辛かったねと、私のために涙さえ流してくれました。

今まで長い間、たった一人で悩んで、苦しんできたことを全て聞いてもらえ、わかってもらえることは感動でした。

 

 

◆ 共感・共有できる仲間の存在は、アンさんに何をもたらしてくれましたか。

 

生まれて初めて、万引きをすることを含めた、ありのままの自分を受け入れられ、認めらたことで、

この仲間の前では、嘘をつきたくない、正直でありたいと思うようになりました。

仲間の前では言動も行動も正して行き、病院のルールも絶対に守りたいし、万引きも絶対にしたくないと思うようになりました。

 

そういう気持ちの変化を主治医や

家族、弁護士の先生に報告する時に「万引きはしたくない気持ち」を更に強固にしていけたのだと思います。

 

 

◆ 刑務所と、赤城の治療は何か違うのでしょうか。

 

刑務所と赤城の治療は天と地ほどの差があります。

 

刑務所はとにかく、画一的で厳しい遵守事項を守ること、複雑で難しい人間関係の中でいかに自分がうまくやっていくか、また刑務官に叱られないことに全神経を費やします。

私はひたすらこの中で問題を起こさず、早く家に帰ることしか考えていませんでした。

 

刑務所に入ったからといっても、自分も家族も何も変わりません。

入ったって、自分がより一層嫌いになり、自信がなくなるだけです。

 

何故、刑務所にまで入ることになったのかを見つめることなく、また見つめる方法がわからないのであれば、
おそらく一生刑務所と社会の往復人生になるでしょう。

 

赤城高原ホスピタルで、私は自分がクレプトマニアだとわかり、治療すれば回復するとわかりました。

同じ痛みと苦しみを持つ仲間の中で、共有と共感を得られると、ありのままの自分でいいのだと強い自信をもらえます。

それが私には一番の薬となりました。

 

刑務所は私に絶望しか与えませんでしたが、赤城高原ホスピタルは、明るい希望と生きていく喜びを与えてくれました。

 

 

◆ 赤城で一番大きな気づきは何だったのでしょうか。

それは、自己憐憫ばかりしていたことです。

 

ミーティングで、自分が家族にどんなに虐げられたか、またどんなに自分が家族に尽くして苦労してきたかを話す女性の仲間がいました。

そのことを少なくとも私が入院している4ヶ月間ずっと話すのです。

最初はそれは大変なことだったなぁ。

かわいそうに…。

それならクレプトマニアにもなるだろうと、最初は共感をしていましたが、

その仲間はその話しかしないし、そこから一歩踏み出して自分が変わろうとする姿勢も感じられない。

家族が変わらないから自分が変われないんだと言わんばかりの様子を見ていると、

そのうち呆れて、またその話が始まったかと思うようになりました。

 

しかし、あ〜、これは自分に当てはまることだなぁと気づいたのです。

 

私もこの仲間のように「悲劇のヒロイン」になることで自分で自分を憐れむことに酔いしれていたのだなと思いました。

 

仲間は私のミラーです。

 

このことなどから自分を客観視することを学びました。

 

◆「自己憐憫」の感情というのが、アンさんのケースではキーワードの1つだったように思いますが、

その内容や、自己憐憫がどうして万引きにつながっていってしまうのかを説明してもらえますか。

 

はい。

一番身近な家族である夫や兄弟が、私が苦しんでいることに全く理解をしてくれない。

そのことが、不満で不満で仕方がありませんでした。

自分の気持ちを話す時は、とても思い切って話すのですが、開口一番、否定的な言葉や強い口調で言われてしまうと二の句が告げなくなってしまいます。

夫や兄弟には今まで、世間に顔向けできないような苦労をさせてきていますから、自分の思いや何か物が欲しいとかそういうことを強く言うことができませんでした。

 

欲しいものがある→誰にも言えない→我慢する→ストレス・怒り→万引きするしかないといった感じでした。

 

◆ 臨床心理士さんのところに夫婦で通って、「カップル・カウンセリング」を受けましたね。

この治療も、アンさんとご主人の関係にとても大きな影響を与えたように感じるのですか、どんなところが良かったでしょうか。

 

カップル・カウンセリングのいい所はカウンセラーさんに向かって話す形態であったことです。

この形態はお互いの思っていることや考えをとても冷静に話せ、聞くことができます。

またカウンセラーさんの客観的な意見を聞くと、自分達の諍いのタネはこんなにつまらないことだったのかと気づかされます。

 

夫と私とは育った環境があまりにも違っていたため、お互いを理解し合うのが難しかったし、結婚生活も長くなり、お互いを理解し合うことに意地を張ってきたのかもしれなかったこともわかりました。

 

また、先に述べた私が「悲劇のヒロイン的」な偏った考えであったこともカウンセリングで話す内に、いい意味でわかってきました。

いい意味というのは、以前は自己憐憫はよくないものと捉えていましたが、今は自己憐憫をする私でもいいのだということ。

なるべくしない方がいいけれど、時にはそれでもいいのだと自分に許すことができるようになりました。

夫も私の考え方が私の生い立ちから来ていることをよく理解してくれるようになったので、自分の気持ちを話すときに説明をつけなくても済むようになりました。

 

 

◆ ここで、担当して下さったO心理士に一言!

一回のカウンセリング時間は1時間半なのに、毎回それをオーバーするほど、私たちの話しを本当に熱心に聞いてくださってありがとうございます。

共々感謝しております。

 

カップル・カウンセリングの力で、

私は前向きに物事を捉えることや

怖がらずに自分の思っていることを相手に話せるようになりました。

 

O先生から「アンさんは心の成長が3歳くらいで止まっていますね。頭の成長に心の成長が追いついていないから苦しんでいるのですよ。」と仰って頂いたことが一番印象に残っています。

 

 

心で感じたことを我慢せずに出して行けるよう自分の気持ちを大切にして生きていきたいと思っています。

 

 

私達のカウンセラーがO先生で本当に良かったです!

O先生にカウンセリングして頂いたおかげで私達夫婦は危機を乗り越えることができました。

本当にありがとうございました。

そして、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

◆ その結果、一審では、求刑がなんと懲役2年6月(前刑に比して重いんですけど…)、判決は懲役1年4月でした。

 

 

◆ 一審の検察官に何か一言言うとしたら?

(弁護人としては、求刑が重すぎる、と言いたいですね。

刑事事件では、裁判官や検察官は、立場上、事件を面白くしようがない。

弁護人が熱くないと、刑事事件は救いようがなくなるので、弁護人は少し熱い方がいいと言われたのは、お亡くなりになった杉田裁判官でした。

刑事弁護フォーラムの研修に招かれた席での言葉だったので、リップサービスも入っていたとは思いますが、

弁護人がしらけていては、刑事事件(特に、認め事件)は、救いようがない…というのは、本当にそのとおりですよね。

 

ただし、それは、あくまで弁護人の話なのであって、

検察官は、淡々としていて、クールなタイプの方が絶対にいいというのが、私の持論です。

公権力を握って強い立場にいる検察官が熱すぎるのも、これまたどうしようもないから、やめてくれ…という気がします。

アンさんは、いかがですか。)

 

先生のおっしゃるとおりだと思います。

あの検事さん、必要以上に熱く「罪を憎んで人を憎まず」という通説に真逆な「人を憎んで、刑に服してこい」的な求刑をしてきたのかなと思いました。

2年6月と聞いた時は我が耳を疑い、何故、そんなに長い求刑をしたのだと足元がグルグル回る思いでした。

 

 

◆ 一審の裁判官に何か一言言うとしたら?

 

求刑の時、あの裁判官さんも求刑の重さに少し驚かれていた様子でした。

 

西谷先生も仰っておられるようにすごく優しく人情に厚い裁判官だと思います。

 

その証拠に(といいますか)、判決は求刑の約半分にまで下がりました。故にこの裁判官は検事とは正反対の「罪を憎んで人を憎まず」の裁量を下す方ではないかと思います。

 

(西谷から)求刑が重すぎたため、判決で下がったように見えるだけで、実際は特別軽かったわけではなく、穏当で、妥当な量刑だったと思います。

優しい裁判官だから軽くなったということはありません。

 

ただ、量刑に直結しなくても、感受性がきちんとあって、人間性のある人に聞いてもらって、裁かれて判決を受けるのと、

感受性が低くて、全く、若しくは、ほとんど被告人や家族の気持ちを感じ取れない人に裁かれるのでは、意味が違うと思うのです。

 

 

当時、その裁判所には、重大事件が多数係属していて、とても忙しい状態でした。

私は、別の裁判官でしたが、アンさんの少し前に、その裁判所で薬物事件を弁護していました。

担当裁判官からは、「時間、時間」、「時間って大切ですよね」と責め立てられ、

その被告人や両親の治療にかけた思いが全く伝わっていませんでした。

 

当事者たちが、複雑で微妙な思いを抱えながら、懸命に依存症による再犯の苦しみと闘いながら、治療して社会復帰したいと願って、努力しているのに、

それを感受性のない裁判官が、全く感じ取ることのないまま、弁護人や支援団体の努力も含めて、すべて無にしてしまった場面を目の当りに見ていました。

 

裁判官は違えど、同じ裁判所への事件係属で、私は、非常に警戒していました。

アンさんの事例は、暴走列車のように万引きしている事案で、犯行態様はおせじにもいいとはいえないし、動機の点でも、容易に理解されないことは明白でした。

 

治療と浄化のためには一定の時間がどうしても必要なのに、また、時間、時間と追い立ててくるのではないかと、

初回公判では、私は、非常に警戒しながら、裁判官の様子を見ていたのです。

 

罪状認否のとき、声を詰まらせながら話すアンさんの様子を見て、裁判官は、複雑な表情を見ぜていました。

(これは露骨なものではなく、ごくごく微妙で、感度の高い人でないと気づかないレベルのものです)。

 

しかし、私は、その表情を見て、直観的に、「この裁判官は当たりだ!」と思ったのでした。

この裁判官は、尋問のための時間も、忙しいであろう中、(無制約ではありませんが)、きちんと時間は取ってくれましたし、

かすかな表情ですが、複雑な表情が現れるところから、ちゃんと聞いていて、相手の感情などを感じ取る感性を持っている人であることが伝わってきたので、とてもいい裁判官だったと思います。

これは、人間性というか、「人間力」としかいいようがないものです。

更生保護については、裁判官にも向き不向きがあるのではないかと思っています。

 

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◆ このケースでは、赤城を退院して自宅へ帰った後、バイク事故に遭って、骨折という重傷を負い、骨を固定させるプレート手術を受けねばならなくなりました。

もちろん事故は意図したことではなかったけれど、退院して、自宅へ帰ってきた直後だっただけに、さすがに当時はバツが悪かったですよね…。すみません、すみませんって感じで。(苦笑)。

 

医師から、半年後くらいに、またプレートを抜く手術をしないといけないと言われて、骨折治療のために、一審後に受刑する予定だったのを変更して、控訴保釈を得て、クレプトマニアの治療も継続したのです。

 

具体的には、一審判決後、約4か月の期間が得られ、その間、地元のKAへの参加の継続と、カップルカウンセリングを継続しました。

 

◆ この4か月の間に、どんなことがありましたか。

 

 

まず、クレプトに対して腰を落ち着けてじっくりと向き合うことができました。

私はKAに参加し、夫はKA家族会に参加、また二人でカップル・カウンセリングにも通いました。

二人で問題を共有することで、どうしたら再犯せずに、幸せな人生を歩むことができるかを冷静に話し合えるようになりました。

そのことで二人とも気持ちに余裕と優しさが出、お互いに優しく接することができるようになったと思います。

 

そのことからお金の問題や、車の問題、私と兄との問題、私と母の問題などの解決を見ることができました。

 

この4ヶ月間ずっと頭を離れなかった言葉があります。

それは、西谷先生が仰った「骨折したのは何か意味があるのでしょう」と。

その言葉の作用もあり、何か意味のある期間にしなければと思い、前向きに問題に取り組めたのだと思います。

 

 

◆ ご主人との関係性について、赤城では、「共依存」という指摘があったのですよね。

共依存の関係とは、どんなものでしょうか。

 

共依存とは、パートナーや家族の問題なのに自分の問題のようにしてしまっていることで、

私達の場合は、夫が私の尻拭いに奔走してくれたことが、結果的に私の自立する機会を阻害していたのかもしれません。

 

私はどんなことがあっても夫が助けてくれるだろうと甘い考えがあり、夫も助けてやらないと私がかわいそうで、突き放すことができなかったのだと思います。

 

それがいつまでたっても、私に「底つき感」を感じさせなかったのでしょう。

 

 

◆ ご主人との関係性は、控訴保釈の間に、どんなふうに変化していきましたか

 

以前はまず、話をする前に夫がどう思うか、というのがものすごく気になり、また言っても理解してくれないだろうとか、こう言ったらきっとこう返ってきて、怒るだろうなぁと思いました。

自分はもう傷つきたくないし、それなら言わないでおこうという激しい思い込みがありました。

その結果、自分の気持ちを抑圧して、それストレスになり、爆発したときに、万引きにつながっていたんだと思います。

 

でも、それは自分の思い込みだから、とりあえず言葉に出して夫に言ってみようと思うようになりました。

言葉にしないと相手には何も伝わらないのですから…。

 

    

今では夫の方も、カウンセリングで学んでいるので、否定的な言葉で返さなくなって、会話が成り立つようになりました。

 

そんな時は、思い切って言ってよかったなぁと思い、その気持ちを素直に夫に「嬉しい」や「ありがとう」という言葉で言えるようにもなりました。

 

 

◆ 買い物やお金という点では、どんなふうに変化しましたか?

 

食料品の買い物は週末に二人で一緒に買い物へ行くようにしています。

その時に夫の方から、これはいる?とか、これいるなら買ってもいいよと言ってくれるのので気兼ねなく買い物ができます。

 

 

また、洋服や化粧品などは夫の方から、何か欲しいものない?と聞いてくれるようになったので、

あ、そう?じゃあ、これが欲しいと、素直に言えるようになりました。

 

また、一人で行くときはリュックで行ったり、財布しか入らないバックで行き、買う目的以外の売り場には行かず、サッサとレジに行っています。

 

また、レシートも必ず夫に見せて

ネット上の家計簿に付けて、いつでも共有できるようにしました。

 

 

◆ ご主人の子どもさんに対する態度も変わりましたか?

 

例えば、子ども達が帰省するときの交通費なども、以前は渋っていましたが、今では、自分から出してくれるようになりました。

他、欲しいものがあるようなら買ってやったらいいよと言ってくれるようになりました。

 

 

◆ そういうふうに対処してくれることで、どんな気持ちの変化がありましたか?

 

堂々と子供にお父さんがお金出してくれるよと言えるのはとても嬉しいです。

今までは、自分が、こそこそ隠れて渡していたので、それがなくなって子どもも喜んでいます。

お金を使うことにビクビクしないで済むのは本当に嬉しいです。

 

 

◆ ご主人の趣味の車のことでは、どんな変化がありましたか。

 

夫が気に入って大切にしていた車だったのですが、それは高級車でサイズも大きく夫以外は運転することができませんでした。

でも、今回の控訴期間中にこれを売却して家族の誰もが運転できる車に買い換えてくれました。

 

◆ アンさんだけではなく、ご主人も一緒に変わられたのですね。

そうです。

夫はとても変わってくれました。

大切な車を手放して、家族が運転できる車に買い換えると考えてくれ、自分より家族のことを優先にと考えてくれていることがとても嬉しかったです。

 

 

◆ パートナーが共に変化することで、物欲や万引きという点で、どんな変化がありましたか。

   

赤城やカップル・カウンセリングを受けた効果で、自分の気持ちを夫に

言えるようになり、夫が協力的になった今は精神的に落ち着いてきて、万引きをしてでも欲しいという気持ちがなくなりました。

 

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◆ 昔、暴力をふるったお兄さんとの間でも、大きな変化があったようですね

どんな変化がありましたか

 

兄は外国に住んでいて、毎年4月に帰国します。

この時を逃したら一生わかり合える機会はないと思い、私から手紙を出してみたところ、「一度会いましょう。」といってくれて、会いました。

 

話し合いは平行線でしたが、私の方から正座して、「家族に世間に顔向けできないことをして、ごめんなさい」と謝ると

兄も「僕が昔アンをあんなに殴ったことで、アンがそんなに傷ついていたとは知らなかった。

ゴメン」と言ってくれました。

その言葉を聞いた時、40年以上胸につかえていた恨みや「どうして、あんなに私をたたいたの?」という思いがスーッと消えて行きました。

 

父が亡くなるたった10歳の間に、兄も父から暴力的なしつけしか受けていなかったから、

母親を助けているつもりで、私にあんなに勉強しろ、勉強しろと言って、殴ったんだろうな、それしか方法を知らなかったからなんだと理解できるようになりました。そのことを言うと兄は泣きました。

それをわかってくれるのかと…。

 

兄と私は別れるとき、長い時間、握手をしたまま無言で泣いていました。

言わなくても、お互い何を言いたいのかよくわかっていましたし、

私にはそれだけで充分でした。

やっと私達は和解できたのです。

 

 

◆ お母さんへの思いは、どんなふうに整理できたのですか。

 

私は父が亡くなってから今まで、母の問題を自分の問題とすり替えて、一緒にしてしまっていたと気付きました。

 

母のことをかわいそうに、かわいそうに、と思って、その母の問題を兄も弟も解決してやれないなら、自分が何とかしないといけないと思い続けてきました。

   

 

 

「課題の分離」という言葉を心理学の本で読み、またO心理士にも指摘されてそれが理解できました。母がああなったのは、母の問題で、自分の問題ではない。

母の問題を私がどう頑張っても解決することはできないということにやっと気づきました。

母も長年に渡り私を頼り過ぎていて、それが見えなくなっていたのだろうということと、母も私の承認欲求を利用してきたところがあるのだろうということがわかりました。

そして、そのことを母にも言えました。

 

◆クレプトマニアの方たちは、「他人との境界線」について、適切な距離感がもてない人が多いように思うのですが、

アンさんは、この点、どんなふうに思われますか。

 

赤城で、そしてKAで多くのクレプトマニアの方に出会いました。

その方全員と言っていいほど、家族との間に問題や悩みを抱えて苦しんでおられます。

すなわち、家族間の問題がなければ依存症にはならないと思いますし、依存症から回復できないのは家族と適切な距離感がないか、あるいは、あり過ぎるからだろうと思います。

 

適切な距離感が持てないのは私のように自分に自信が持てなく、自分の気持ちを相手に言えなくなっているからではないでしょうか。

 

◆ 今回と、前刑までとの決定的な違いは、何だったのでしょうか?

 

前回は「万引きはしません」でしたが、

今回は、「もう二度と万引きはしたくない」と、心から思えるようになったことです。

 

私はこれまで万引きしてしまうことを病気だと思っておらず、依存症だという認識もありませんでした。

だから、万引きしてしまうのは自分の意思の力が弱いせいと自分を責めていました。

けれども、赤城に入院治療を受けてからはそうではない。仲間の中や家族の理解があればアディクションに依存しないで生きていけることを知りました。

クレプトは自分一人の力では決して回復しません。

同じ痛みのわかる仲間の中にいて、そして深い家族の理解の中にいて、初めて回復するのだということがわかりました。

このことが以前との決定的な違いです。

 

今まで、万引きして物を手に入れることで、心が満たされていると思っていたのは錯覚だったとやっと気づきました。

    

 

◆最後に、このHPを読んで下さっている方たち、当事者の場合もあれば、ご家族の場合もあると思いますが、

アンさんからお伝えしたいことがあったら、どうぞ!

 

私は保釈と控訴を合わせて、ほぼ一年程、社会にいさせて頂き、その間クレプトの治療に専念することができました。

これも全て、夫と西谷先生の尽力のおかげと感謝しています。

 

西谷先生から刑務所に入る前の今、赤城に入院して治療をしないと一生、刑務所と社会の往復の人生になると言われ、

藤乃さんとミニーさんのブログを読ませて頂きました。

このお二人のブログを読んで、世の中に私と同じように苦しんで、戦っている人がいることに、とても衝撃を受けました。

そして、私も藤乃さんやミニーさんのように回復したい!

私も赤城高原ホスピタルに入院して治療を受けたいと心から思いました。

そして、西谷先生と夫のおかげで念願の治療を受けることができ、ここまで回復することが出来ました。

 

自分ではこの期間にクレプトに対する認識がかなり深まって、万引きは二度としたくないと思っています。

しかし、万引き行為は嗜癖です。

私の脳みそは万引きする快感を覚えてしまっています。

ふとした気の緩みでいつ、脳みそがその快感を求めるやもしれませんので、それをしないために、一生、自助グループKAや赤城に繋がっていかなければいけないと思っています。

 

こうして治療記録を西谷先生のブログに掲載させて頂いたことも、絶対に再犯をしない戒めとなることでしょう。

そして、この治療記録が私のクレプトからの卒業論文となるよう、これからも努力して行きます。

 

私の経験が同じ悩めるクレプトマニアの方やそのご家族の一助になれば幸いです。

 

最後に西谷先生へ。

私は先生に出会えて人生が変わりました。

先生は最初から私が回復出来ると信じてくださいましたね。

だから、私はここまで回復することが出来ました。

先生に出会えてよかったです。

先生のポジティブな考え方と明るく前向きな姿勢に導かれ、

生きる希望が持てました。

本当にありがとうございました。

 

またこのような記録を残す機会も与えて頂き、ありがとうございました。

西谷先生に深い感謝を捧げます。

 

赤城のアンより

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(西谷から)

お褒めいただき、恐縮です。

正直、この事件の依頼を受けて、捜査から起訴直後、被害弁償に回っているときは、

この事件がどこへ向かうのか、最終的にどんな形で収まるのか、全くわかりませんでした。

 

一審判決時も、かなり理解しているつもりでしたが、判決後に、(このころには、私は何もしていませんでしたが)、

私の知らないうちに、「期が熟すように」いろいろ解決していきました。

さらに、この原稿を書いてもらうことで、深く理解できた感じです。

(子供のころのシーンは、わかったようでわからなかったのですが、この原稿を読んで、初めて映画のワンシーンのようにイメージできるようになりました)。

このHPが多くの人を勇気づけ、治療への一歩を踏み出す一助となれば幸いです。

 

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