裁判員裁判の説諭 ~被告人にとって感銘を与える説諭とは~

先日、法曹三者の三庁意見交換会があり、今回は「判決」について意見交換がされていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

予め「判決」に関する複数の議題が用意してあるのですが、

その中で、最後の議題として、「説諭」の話が出ていて、おもしろかったので少しだけ書いてみたいと思います。

 

 

議題は、「説諭について」

(1)裁判官裁判と裁判員裁判で説諭に変化はあるか。

(2)被告人にとって感銘を与える説諭はどのようなものか。

というものでした。

 

(1)については、裁判官のお話では、裁判官裁判時代は、説諭の内容を議論するなどということはなく、

裁判官が1人で考えて、法廷で述べていた。

しかし、裁判員裁判では、説諭の内容も話し合っていることが、裁判官裁判とは大きく違うところで、

評議で出た裁判員の意見を取り込む形で説諭についても検討し、最終的には、裁判長が法廷で伝えているとのことでした。

 

なるほど…と思いつつ、まぁ、それはそれでいいとして、面白かったのは(2)の方です。

 

 

「被告人にとって、感銘を与える説諭はどのようなものか…」

うーむ、また、難しいことをお聞きになる。

 

当然、この質問に対しては、まず弁護士会に意見が求められました。

実は、弁護士会内でも、事前に議題がMLを通じて配布されており、

念のため、一応、発言担当者なるものが横に記載されていたりします。

 

とりあえず、意見交換会を主導されている先生が感覚的にわりふられたもので、

現実には、表のとおりに議論が進むようなことはなく、あまり関係ないのですが、

実は、この説諭の議題の(2)の発言担当者のところには、私の名前が書いてありました。

 

なんで私やねん?と思わなくもないのですが、

私が「更生保護」を主張していることをご存じで、配慮して下さったでしょう。

 

 

しかし、テーマがとても難しいのと、

この三庁意見交換会では、通常は、部総括裁判官や、弁護士会では大御所及び委員長クラスの先生方が発言されていて、

若手は三庁ともにあまり発言しないので、私もつい知らんぷりしてしまいました。

 

 

すると、弁護士会の刑事弁護の大家である、とある先生から、説諭不要説が…。

 

被告人にとっては、結果がすべてなのであって、

判決が思っていたときより軽いときは嬉しくて舞い上がっているし、

判決が思っていたより重いときはショックで落ち込んでいるしで、

説諭は、実は覚えていない人が大半だ、

特に、結果が重いときに、説諭など意味がないのであって(こういう言い方だったか、記憶が定かではありませんが…)、

説諭など不要だとおっしゃるのです。

 

 

居並ぶ裁判官を前に、「説諭は不要だ」と言い切ってしまうことには、躊躇を感じなくはないものの、

内心、なるほどー、確かに!と共感する内容でした。

 

また、若手の有力弁護士からは、説諭はしない方がいい事案もあるとの意見が出て、

「どのような事案が説諭しない方がいい事案か?」との裁判官からの問いに、「否認事件だ」と答えておられました。

 

これも、なるほどー、確かに!と深く納得しました。

 

 

思い返してみると、自分の裁判員裁判では、実は、弁護士である私自身が、説諭をほとんど覚えていないのです。

 

最初の覚せい剤密輸の認め事件では、ベテランのA先生と一緒にやらせていただいたのですが、

A先生は、説諭の内容が裁判員裁判的だった、

従来と違って、裁判員の意見が入っている感じがしてよかったという趣旨のことを判決後におっしゃっていたのですが、

私は、おそらく、被告人と深く同化してしまっている面があるからでしょう、

8年という量刑を前にして

(同種事案に比べればけっして重くはなく、むしろ軽い方なのですが、私には途方もなく長い期間に感じられました)

説諭になど、全く何も感じませんでした。

(今でも、何を言われたか、全然覚えていません)。

 

 

最近やった裁判員裁判のときもうでした。

 

判決で言い渡された期間の現実の長さを思い、

読みあげられる判決文の中で、量刑理由あたりで、「そこは違うだろう!」と腹が立ったりしていたため、

そのあとの説諭など、はっきり言って、あまり覚えていないのでした。

 

私が覚えていなくても、むしろ、被告人の方がちゃんと覚えているという可能性はあるのですが、

たぶん、どっこいどっこいではないでしょうか。

 

となると、説示不要説を述べられた先生のご意見は、非常に的を得て、正しいのではないかと思えてくるのでした。

 

 

若手の先生の、「否認事件のときは、説諭はしない方がいい」という意見にも、全くもって同感です。

これは、一審が裁判員裁判事件の控訴審を担当したときに、痛感しました。

 

 

控訴審を担当していると、自分が原審を担当している時と違い、少し引いた目で原審記録を見ることができます。

他方で、被告人とも接見しますから、被告人の話も直接聞くわけです。

そういうとき、原審では、被告人(この被告人はどういう人なのか)と事件(どうしてこの事件が起こったのか)が理解されていないことを痛感します。

 

 

こういうとき、どんな説諭がされたかは、記録には載っていないのでわかりませんが、

仮に、どんな説諭がなされていようとも、全く無駄だ、無益だと感じるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、「被告人にとって感銘を与える説諭とは?」という問いに対する私自身の意見は…と問われると、

私自身は、「被告人と事件を理解していることがにじむ説諭」だと答えます。

 

 

それ以外に、感銘を与える説諭などないと思うのです。

 

 

三庁意見交換会の中で、この説諭の議題の前に、

「被告人、弁護人にとって、説得力のある判決とは、どういうものか」

「逆に、事実認定が誤ってるとか、量刑が気に入らないとかは別にして、不満が残る判決とはどういうものか」

というテーマも書いてあったのですが、

私は、その答えも全て同じだと感じます。

 

 

被告人と事件に対する「理解がにじむ判決」「説諭」が、説得力のある判決、説得力のある説諭、

「理解が感じられない判決」や「説諭」が、不満が残る判決、不満が残る説諭…だと思うのです。

 

 

そこで、説諭した方がいいか、しない方がいいか…。

 

(判決は当然言い渡されるものだから仕方ないとして、)

説諭について、言った方がいいか、言わない方がいいか、

説諭で感銘力を与えられるかどうか…、なんて、

そんなことは、最初からこうするべき、ああするべき、

こう言えば感銘力を与えられる、与えられないとかいうものではなくて、

裁判というものが、わずかなる証拠しか見ないで「人を裁く」ものであるという現実を前にして、

それでもなお、この裁判を終えて、被告人に伝えたい言葉がある、

被告人が受け取ってくれるかどうかはわからないけれど、やはり伝えたい、伝えられれば…と願って、

あえて述べる言葉なのではないでしょうか。

 

 

 

被告人や弁護人が評議の中に入っていけないように、

被告人や弁護人にも、裁判官や裁判員が入ってこられない、絶対不可侵の領域があると思うのです。

 

 

被告人に強制できるのは、判決のみです。

説諭で被告人を変えてやろうなどという考えは、傲慢と驕り意外の何物でないのであって、

被告人と弁護人の絶対不可侵の領域に、土足で上がりこんでくるようなものではないでしょうか。

 

説諭は「伝えたいという思い」であり、「願い」でしかありません。

 

 

刑罰は苦痛であり、苦痛を与えることでは人は変えられないと思います。

説諭で感銘を与え、彼/彼女を変えたいと願うなら、理解を示すことしか出来ることはないと思うのです。

 

 

もちろん、最終的な判決は、対立する利益や法益を考慮しないといけませんから、

被告人の主張とおりにはならないでしょう。

しかし、それでもなお、被告人の個性、その思いや主張に思いをはせ、

事件がなぜ起こったのか、彼/彼女がどうして事件を起こしてしまったのかについて、理解を示すことはできます。

 

そのうえで、君の思いは踏まえたけれど、それでもなおこう考えたから、こういう結論にしました…と述べる、

それが被告人にとって、納得できるものであれば、

その説諭には感銘力があるということになるのではないかと思うのです。

 

 

 

更生保護は、確かに、裁判所の理解と協力によるところが大きいですし、

現実には、保釈をいただくにも、軽い量刑をいただくにも、裁判所の理解がなければなりません。

しかし、だからといって、裁判官に説諭でこう言ってほしい、ああ言ってほしいなどと思ったことは一度もないように思います。

 

 

弁護人のスピリットは、裁判官がどう言おうとも、被告人の思いを理解するところにあり、

いくら更生保護を目指していても、そこからしか始まらない気がするのでした。

それは、法曹三者のそれぞれの役割であり、永遠に交わらない部分のような気がします。

 

 

長くなってしまったので、今日はこのへんで…。

 

 

 

 

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