裁判員裁判の冒頭陳述(2)

今日は、前回の続きで、裁判員裁判での冒頭陳述について、普段感じていることを書いてみようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

①まず、時間。

私の担当した裁判員裁判事件は、暴行態様などについて、公訴事実の一部を否認しているケースはありましたが、基本的には事実を認めている「情状事件」でした。

ですから、時間は20分~30分。

分数だけ聞くと短いように感じますが、これで十分。

公判前整理手続き中に、裁判官から「冒頭陳述は20分で十分ね!」と言われたときは、少しムッとしたのですが、実際やってみると、長いいとかえって冗長になって、インパクトがなくなってしまうのです。

事件数が多くてどうしても時間がかかるとか、何か特殊な事情がない限り、時間は「ああ、短いな…」と感じるくらいにしておくのがベストという気がします。

 

となると、次の問題は「どうやって削るか」です。

私の場合、裁判員裁判では、冒頭陳述に限らず(被告人質問が典型ですが…)、常に「削る」という作業と格闘している気がします。

 

というのは、弁護人は検察官と違って、被告人をずっと手元に抱え込んでいます。

検察官は、確かに、多数の客観的な資料や捜査証拠を持っているのですが、肝心の被告人については、追起訴が続かない限りは、最大23日間しか取り調べることができません。

23日が経ったら、手放さざるを得ないわけです。

それに対して、弁護人は、それこそ起訴から裁判まで、(最近は特に、簡単な事件でも裁判までの期間が1年くらいに延びてしまっている)延々と被告人を手元に抱え続けています。

その間、被告人や家族との対話の中で、大量の情報(事件の背景、被告人や家族の想いや感情のようなものもすべて含めて…)に触れ、身体で感じ取っているのです。

 

それは、例えるなら、「氷山の一角」とでもいうようなものでしょうか。

氷山では、海面に出ている部分は1割程度で、その9倍以上の巨大な体積が海水の下に沈んでいるわけですが、弁護人である私が被告人と事件に対して感じ取っている情報量は、さながらこの氷山のごとき状態です。

法廷で表現している部分は、せいぜい1割程度。

海面上に見えている1割の下には、見えない巨大な9倍の体積が沈んでいて、ちょっとやそっとのことではびくともしないくらいの状態になっています。

 

このような状態ですから、いざ裁判になると、理解しているだけに、つい説明したくなり、言いたくなるのです。

 

それをグッとこらえて、削り落とす作業をしていくことになります。

これは、事案を理解している弁護人にとっては、意外に辛くて、難しい作業です。

 

 

冒頭陳述は、弁論と違ってストーリーを語るもので、論戦するものではないので、比較的簡単な事案の場合はすらすら筆が運びますが、前提事実を説明しなければいけないような事案や、少し専門的な話、例えば、鑑定による医療の話や治療の問題がからむような場合は、冒頭陳述のどこで、どの順序で、どの程度まで説明するかで、ウンウン悩むことになります。

 

準備して書いているときは、説明しないと裁判員にわかってもらえない気がして、つい盛り込んで書いてしまうのですが、あとから実際に読んで実演してみると、「思い切ってもう少し削ればよかったか…!」と思うことも少なくありません。

 

冒頭陳述は、裁判の一番最初に行われるものですし、ここであまり多くの詳細な情報を盛り込みすぎると、かえって事案の骨格がわかりにくくなり、伝わりにくくなるような気がします。

 

②次に、ペーパーレスでないといけないかという問題ですが、私は、ペーパーレズである必要はないと考えています。

自分の事件では、一番最初に担当した裁判員裁判では、研修で言われていたとおり、ペーパーレスで実演したのですが(ほとんど間違えず、成功はしました)、このとき以来、これはあまりに非効率でストレスフルだと感じて、その後は準備した書面を手に持って読むようになりました。

もちろん、言葉は平易に、1文は短文とし、棒読みはせず、感情的になりすぎない程度に抑揚をつけて読んでいます。

(また、配布している資料は、読み上げ原稿とは異なります。)

私としては、これで十分だと思います。

 

ペーパーレスを主張する先生方は、弁護人が裁判員の注意を引き付け、アイコンタクトも取れるように…というご主旨なのだろうと思うのですが、日本人は直接目があうアイコンタクトに気恥ずかしさを感じる面があって、最初からバシッと目があうというのはかえってやりにくい感じがします。

それに、ペーパーレスだと、どうしても覚えようとすることになり、非常なストレスと過剰な労力がかかります。

法廷弁護技術を指導する先生方は、いや、覚えなくていいんだ、むしろ覚えるものではないとおっしゃるとは思いますが、そうすると、今度は言葉が抜け落ちたり、その場、その場で言葉が変わることになるのです。

私はこれがとても嫌なのです。

 

 

だいたいそういう指導をしておられる弁護士の先生方は、従来型の刑事弁護人というか、無罪事件を重視して、争うことを重んじ、情状弁護は軽いものと考えてきた価値観の人達です。

これは意図的に軽視してきたというよりも、それが刑事弁護の歴史だったのでしょう。

公訴事実を争っていれば、慎重に審理してもらえましたが、情状だというと途端に扱いが軽くなり、あとは「寛大なる判決を…」と裁判官の温情に訴えるしかないと思われてきたため、弁護人も必然的に事実を否認して争う方が価値があるのだと考えるようになったのではないでしょうか。

 

否認事件では、争っているのは事実なり、責任能力のような法律上の主張なりですから、あるかないか、白か黒か的な話になりがちな面があり、説明する際の言葉が多少変わったからといって、大勢に影響はないということになるのかな…と思います。

 

でも、情状弁護は違うのです。

彼は犯罪を犯した。

しかし、なぜ彼がそんな犯罪行為をしてしまったか、そこには一定の理由があり、背景があるのだ、それを理解してもらいたいと語っているのです。

いわば、悪の中にもその理由を見い出し、理解しがたきを理解して、共感を得ようとしているわけです。

その微細さは、無罪弁護が白か黒かの世界だとしたら、情状弁護はグレーの色彩を見分けていく世界です。

白か黒かだけを問う無罪弁護よりも、グレーの色彩の違いを見分けていく情状弁護の方が、はるかに微細で成熟した世界であるというのが、私の考えです。

(これは、刑事弁護の世界では非常に珍しい考えでしょうね)。

 

そんなグレーの色彩の違いを説明しようとしているときに、行き当たりばったりの言葉で語ることはできません。

裁判は文学とは異なるので、平易さや明確さが必要になりますが、それでもやはり、被告人の心情など、その微細なニュアンスが伝わるようにと、選び抜かれた言葉を使い、考え抜いた順序で語るべきだと考えています。

 

しゃべれと言われたその瞬間に、フランソワーズ・サガンのように、選び抜かれた言葉が出てくるというならともかく、平凡な人間であれば、準備して、使う言葉を吟味して決めておくのは当然だと思うのです。

このような点からも、ペーパーレスは適していないというのが、私の考えです。

単なる私の意見ですが…。

 

まぁ、それぞれの弁護人の考えとスタイルがあって良いのだろうと思います。

 

今日は、時間とペーパーレスについて、普段考えていたことを書いてみました。

 

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