愛するということ エーリッヒ・フロム ~母性と父性の統合について~

昨日のブログで読書感想文(?)を書いた「愛するということ」、エーリッヒ・フロム(新訳版)について、

もう1つ、心に残ったことを書いてみたいと思います。

母性と父性の統合について、ふれられている部分です。

 

 

 

 

 

 

 

 

エーリッヒ・フロムは、母性への愛着から父性への愛着へと変わっていき、最後には双方が統合されるという発達こそ、
精神の健康の基礎であり、成熟の達成だと言っていました。

これがうまくいかないことが神経症の基本原因だとのことです。

(この点は、クレプトマニア(窃盗壁)の弁護活動をしていて、幼いころ、特に母性との関係がうまくいかなかったことが原因で、摂食障害や人格障害を併発して苦しんでいる方たちを見ていると、きっとそうなのだろうな…と実感します。)

 

そして、この発達過程は、人類の歴史、つまり、神への愛でも同じ過程をたどっていて、

はじめは母性的な女神への依存であり、

次に、それが、父性的な神への服従となって、

成熟した段階に入ると、人は、神を人間の外側にある力とみなすことをやめて、

愛と正義の原理を自分自身の中に取り込み、神と一つになるのだそうです。

 

 

フロムは、成熟した人間は、母親的良心と父親的両親を併せもっていると言っていました。

母親的良心は、「あなたがどんな過ちや罪を犯しても、私の愛はなくならないし、あなたの人生と幸福への願いもなくならない」といい、

父親的良心は、「お前は間違ったことをしたのだから、その責任を取らねばねらない。何よりも私に好かれたかったら、生き方を変えねばならない」という。

成熟した人間は、この2つの良心を自分の内部に併せ持っているそうです。

 

 

私は、本を読んだとき、フロムのこの指摘を、弁護人の弁護活動や、刑事裁判での被告人に対する法曹(主に、弁護人と裁判官)からの働きかけという問題にあてはめて考えて、とても共感しました。

 

まず、弁護活動についていえば、
弁護人によって、被告人への向き合い方にもいろいろスタイルがあると思いますし、
事件の大きさ(短期で終わる事件なのか、裁判員裁判のように、長期間に及ぶ事件なのか)によっても、対応の仕方は違ってくるとは思いますが、

少なくとも私の場合、最初のうちは、まずは母性的な対応をして、次第に父性的な対応を取り込んでいくというスタイルをとっています。

事件直後(逮捕直後)は、被告人の言っていることが多少不合理であろうと、

自分の視点に偏っているように感じられようと、基本的に、責めることはせずに、

いったん全て受け入れることをモットーにしています。

そして、彼らの中の長所をみようと務めます。

 

この段階で彼らを責めないのは、取調べが続いている間は、彼らは警察や検察から十分責め立てられているわけで、
ここで弁護人までが責めたら、彼らは疲弊しきってしまうからです。

さらに、事件や逮捕から間がない時期は、心身の状態が悪いことが多く、ここで自分を客観視しろといっても不可能だからです。

それに、被告人の言っていることが一見不合理に思えても、よくよく調べてみると、実は正しいということは多々あります。

だから、まずは責めずに、受け入れるのです。

法曹三者の中の弁護人の役割という視点からみても、その役割の基本は「母性」だと思います。

 

 

しかし、いつまでも母性だけで対応していては、社会に受け入れてもらうことはできず、結果的に彼の量刑が重くなります。

それは他の誰でもなく、彼自身の苦しみとなり、不利益になります。

だから、取調べが終わり、彼が落ち着いて安定してくるのを待った後、検察官から開示された証拠も見た上で、

母性的対応から父性的対応へと、徐々にピッチをあげながらシフトしていくことになります。

目標(ゴール)は、裁判の公判であり、被告人質問です。

例えていえば、植木にグサッとハサミを入れて、刈り込んでいくような感じでしょうか。

ハサミを入れるときは、何だかかわいそうな気もしてしまいますが、ここで切らないと、あとあとちゃんと育たないのです。

(あくまで私にとってのものですが…、)
弁護活動というものは、母性を基本としつつ、母性の範囲内で父性的要素を取り入れて、被告人の状態を最善の状態へとつくり変えていく作業という気がします。

 

 

次に、裁判全体、つまり、被告人を取り囲む法曹三者という視点から見た場合、

母性の役割を果たすのは弁護人なわけですが、父性の役割を果たすのは裁判官ではないか…という気がしています。

 

もちろん、検察官も公益の代表者として、法廷のバーの外からみれば、非常に重要な役割を果たしているわけですが、

被告人の視点から見た場合、検察官は被告人を有罪にし、かつ量刑を重くするべく過剰なまでに彼らを攻撃する面があるので、

とにかく「敵!」という感じがしてしまって、父性の役割は到底果たせません。

父親は、公正で厳粛であったとしても、敵であってはならないからです。

そう考えると、父性の役割を果たすのは、やはり「裁判官」なのかな…と考えたりします。

 

 

実際、多くの被告人は、多少の悪口は言いますが、

基本的には、裁判官は偉い人なのだと思っていて、何とかいい評価をしてもらいたいと思っています。

(その判断に彼の人生がかかっているのですから、当然といえば当然ですが…)。

 

 

弁護人は、良き母親として、たとえどんな罪を犯した被告人であっても、彼の幸福を願い、愛をもって守り抜こうとし、

裁判官は、良き父親として、公正さとか、社会の規範というものを体現しつつ、なおそこに愛が感じられる裁きをしないといけないのでしょうね…。

そのバランスがうまく取れたとき、それはいい裁判なのであって、

(被告人が納得するとは限りませんが、しかし、子どもというのは総じてそういうものです)、

更生に資する裁判になるのだろうと思います。

 

 

フロムの文章の高尚な響きに、ふと被告人への弁護人のあり方を思った今日このごろでした。

 

 

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